今考えたことわざ「いくらのまるのみ」

一度も噛まれることなく、飲み込まれていったいくらのこと考えると、夜も眠れないことない?
ぼくは、あるね。
今がそう。そのこと考え始めたら眠れなくて、今こうしてる。
たぶん生まれてこのかた、噛まずに飲み込んでしまったいくらは500粒を超えていると思う。

完全に噛み潰してから飲み込めばいいじゃんって思うかもしれないけど、問題はそう単純ではないと最近分かってきた。
なぜなら、ふだんぼくたちは完全に噛み潰すことを意識してものを食べることはなくて、それを意識してしまうことで脳にノイズが混入する。
しかも、”いくらをすべて噛み潰す”という行為が目的になってしまうので、無視できないレベルのノイズとなる。
あれ、今何食べたっけ?ってなる。
ぼくがお寿司を食べてるときに話しかけられると、「今何食べてるか分かって話しかけてる?」って強めの口調で聞き返したくなるのもこれが理由だね。
たまにさ、「30回は咀嚼をして、のみこみましょう」って言われて、「いーち、にー」って数えながら噛んでるこどもとかいるけどばかなのかなって思うね、個人的には。

ところが逆に、いくら単体で食べているならまだしも、シャリといっしょに食べてる状況下で、”すべて噛み潰す”という目的意識なしにすべてを噛み潰すことは実質不可能だと思っている。
これをいくらのジレンマと名付けたいね。

つまり、いくらって言うのは、ある意味で一番咀嚼を必要とする食べ物だっていうのがぼくの見解。
問題なのは咀嚼回数ではなくて、正しい表現か分からないけど、噛み方に指向性がいる。
肉とか野菜とか、その他の食べ物は大体アバウトに噛んでれば、味が広がるし、そもそも口に入れば噛めないってことがない。
だけどいくらは、粒を破裂させることを前提に味が成立するので、上あごと下あごがかみ合う範囲内に粒をもっていかないといけない、これを噛みの指向性とよびたい。

要するに、
いくらの粒を破裂させること、と、いくらの味を楽しむこと、はトレードオフの関係にある。
今さら気付いて恐縮だけど、噛み方に指向性が必要ないくらは、少なからず脳にノイズが混入するので、その分のハンディを背負って、今の立ち位置を形成している。

すべて噛み潰すことははじめからあきらめ、80%噛み潰すことを正とする(いくらの80%ルール)流派も存在すると思う。
粒の絶対数が一定以上多くなれば、100%噛み潰すことにこだわる必要はなくなると思う。
一方で、混入するノイズの量を最小限におさえて、100%噛み潰すことを追求する流派も存在していいと思う。
この追究によって、今までの半分の粒数でいくらをお楽しみいただけます、みたいなことが可能になる。

ところで、今考えたことわざは
「いくらのまるのみ」

価値のあるものを手に入れてもそれを使いこなせないこと。
価値のあるものを手に入れても使い方を誤って無駄になること。


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