この年末年始は人生初めて実家に帰らないことにしましたが、今年は3回の実家帰省をしました。
1回目は、祖父危篤のため。
昨年末に祖母が亡くなってから、みるみるうちに祖父も元気を失くしたよね。
とうとう自力で呼吸できなくなって、もうだめだっていうときに、うちの母親が持てる限りの権力をふりしぼって医療センターのお医者さんに懇願し、なんとか命をとりつぐ処置をしてくれたって聞いたよね。
じいさんは90をこえていたので、ふつうそんな延命治療を受け入れてくれることってないらしく、「もう十分に生きたんだしゆっくり見送ってあげたらどうですか?」って言われるらしいよね。
母親はさみしがりやなので、ただひとりになるのがいやだっただけだとぼくは思ってるんだけど、安らかないさぎよい死か、延命かの選択で延命をごり押ししたことについて、次の理由をあげました。
「最期にだれに会いたかね?」と祖父にきくと、
「みっちゃん(ぼくのこと)」とこたえたらしい…
孫に会わせるまでは絶対に死なせられないと、うちの母親は思ったらしいです。
まあね、たしかにわかるよ、たしかにぼくは数いるじいさんの孫の中でも一際稀有なる才能を持った孫だったよ。
うんうん、それはわかるんだけど、とりわけじいちゃんっこってかんじでもなかったし、ぼくの名があがったことに関して少し驚きました。
祖父はぼくと対照的に頑健な体の持ち主で、特筆すべきは「歯」でした。
90を過ぎてるのに、というかとうとう死ぬまで、上の歯も下の歯も全本自分の歯でした。
そんな細部にわたって潤沢なリソースを保有していた祖父でしたが、はじめにボトルネックとなったのは「肺」でした。
肺をやられると酸素を取り込めないという、ごまかしきかない致命的な問題が発生します。
酸素を効率的に送り込む必要があるため、はじめの危篤のときに、喉に穴をあけ酸素を送り込めるようにする手術を受けました。
そうすると、はいた息が声帯を通過せず、喉から出て行ってしまうため、声が出なくなります。
1回目帰省したときから、祖父は声が出ない状態でした。
このように肺の衰弱がメインの症状であったため、祖父は血中酸素濃度を常に監視されていました。
この値が全く以て不安定で、推測不能な動きをするんですね。
血中酸素濃度が下がってくると細胞がどんどん死んでいきますので、正常な値にまで戻すために酸素を投入しなければいけない。
酸素投入すると、血中酸素濃度の値が戻ってきます。
だけど、酸素を投入して問題解決なら投入し続けてたらいいわけじゃないですか、でもそうはいかないみたいです。
人体のシステムっておもしろいなあと思ったんですけど、
そもそも肺が弱ってるのに、本来その体が受けきれるキャパシティ以上に酸素投入しちゃうもんだから、体内に炭酸ガスがどんどんたまっていって、はけさせることができないらしいんです。
炭酸ガスが体内にたまると、意識がなくなってくるそうです。
酸素を投入する技術はあっても、炭酸ガスを取り除く技術ってないみたいですね。こればっかりはシステム化できない。
ではどうするかというと、呼吸の流れに合わせて、おなかを押すんです。タイミングをみはからって、炭酸ガスを押し出す。
これがうまくいくと、容態がどんどん悪くなっていたところが、見事に蘇生するみたいです。
母はずっとこれをやっていたそうです。ずっと。3ヶ月くらい24時間ずっと。
そのへんの看護士がどんなにがんばってもうんともすんともいわない、難しいわざだと聞いていますが、
母親がこの炭酸ガス押し出しをやり始めると見事に蘇生できたといいます。
ちなみにうちの母親は地元の病院で看護士長をやっています。
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2回目の帰省は、祖母の初盆のため。
東京に行ったっきり全く戻ってこなかった暴れ馬ども(ぼくの叔父たち)もさすがに勢揃いし、ボロ家をにぎわせました。
そのとき、こんなチャンスはもうないからと、母親が、体を起こすことも声を出すこともできない祖父を家に連れて帰るという決断を下しました。
数字(酸素濃度)が良くなった一瞬の隙をついて、じいさんをベッドごと車にのせ、ボロ家へ帰宅しました。
じいさんにとっては本当にひさしぶりの帰宅だったと思います。
家に滞在した時間はわずか15分間くらいでした。
特になにをしたというわけではないです。
じいさんの体を無理やり起こし、
ひさしぶりの我が家の眺め、
集合した家族と孫たちの顔を見て、
そして最後に祖母の遺影をみんなで取り囲みました。
病院を出て、戻ってくるまでの60分間くらいのできごとが目に焼き付いています。すごい60分間だった。
ばあさんの遺影を取り囲んだとき、
じいさんの額に青筋がたって、目は煌々としてた。
あんな顔今まで全然見せなかったのに。
病院へ帰る車にいっしょに付き添ったんですが、母親が酸素の濃度が異常に高いとさわいでいました。
酸素投入もしていないのに、何もしていないのに、血中酸素濃度が異様に高かった。
その間、車の中でじいさんずっと笑ってました。ぼくが見てもわかるくらいはっきりと。
じいさんはすごくうれしかったんだと思います。
延命処置を施すって聞いたときに、静かに死なせてやったほうがいいんじゃないかってすごく思いました。
ぼくがじいさんだったら、潔く死ぬ方を望むと思いました。
それに、じいさんを家に連れて帰ると聞いたときも、無理しないほうがいいんじゃないかと思いました。
行ってすぐ帰ってくるだけで、疲れるだけなんじゃないかと。
延命という選択によって、間違いなく、じいさんは死ぬより苦しいおもいをしたはずです。
だけど、うちの母親がさいごまでぶれなかったおかげで、さいごのさいごで死ぬほどしあわせな体験ができたんじゃないかなと思いました。
前に爆問学問(爆笑問題がいろんな教授とかプロの人とかまわるやつね)でホスピスがテーマの回があって、それ思い出した。
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20110519.html
苦しそうな患者さんを見てると、できるだけそっとしておいてあげたほうがいいような気になるけど、
自分で体も動かせないような患者の場合、たまに無理矢理手足の運動させてみたり、寝返りをうたせてみたり、外に連れ出したりってやったほうがいい。
それが本当に相手ののぞむことではなかったとしたら、それはしようがない。
そう思って何もしないより、なにかしてあげるほうが先が開けるとかなんかそんなこと言ってた気がします。
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3回目の帰省は、祖父の葬式に出席するためでした。
嫌な予感はあたって、やっぱりぼく(と姉)が弔辞を読む担当になってました。
いやな仕事はできるだけ後にまわすだめなタイプなので、弔辞はぎりぎりになって書いたんだけど、けっこういいやつができたかなあと思った。
じいさんには特に尊敬できることが3つありました。
・常に目標を決めて毎日を送っていたこと
・毎日を楽しく生きて、まわりも楽しくさせてくれること
・家族に優しかったこと
です。
っていう出だしで、それぞれのエピソードを話すという、できる就活生を彷彿とさせる明快な構成でした。
ただ、ぼくには祖父の一番好きなエピソードがいっこあって、どうしても言いたくて、内緒で無理矢理この構成にねじこんだ。
祖母は祖父よりも少し前に亡くなって、時期は2011年の年末で、急だったのであわてて実家に戻ったんだけど、
そのとき、祖父が見たことない指輪を2個つけてたのに気付いた。
なんだろうと気になってたら、あとから聞いた話、
ばあさんが死ぬ1週間前くらいにテレビ通販で買って、これからいっしょにかたっぽずつつけようねって約束した指輪だったらしい。
このとき祖母88と祖父92だった。
なんていうか、この話、じいさんとばあさんらしさを如実にあらわしたエピソードなんですよ。
喧嘩ばっかりしてるじいさんとばあさんだったけど、なんやかんやで互いに気をかけてて、喧嘩したり仲直りしたりを繰り返してました。
無意識に別れを察知してたのか分からないですが、でも最期は結局そういう夫婦の別れ方だったっていうのが、すごく好きだった。
悲しいとかじゃなくて、ペアリングを買ってつけるっていう行動のかわいさに涙が出ました。
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metheglin祖父は2012/9/7 92歳で亡くなりました。
最近、すごい勢いでものを忘れていって、なんか全然思い出せないんですよね。人の名前とか、固有名詞系。
(特にひどいのは外国人サッカー選手の名前ね)
社会人入門後のこの忘却スピードのすごさにはちょっと焦りを感じているんですけど、
祖父が死んだときのこのかんじは忘れてはいけないと思った。
なんか忘れそうでこわかったので、残しておきたかったです。
ありがとうございました。